大判例

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横浜地方裁判所 昭和56年(行ウ)24号 判決

原告

鈴木紀子

右訴訟代理人弁護士

堤浩一郎

篠原義仁

三浦守正

被告

横浜市

右代表者市長

細郷道一

右訴訟代理人弁護士

山崎明徳

主文

一  被告は原告に対し金二〇〇万円およびこれに対する昭和五七年一月九日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は三分し、その一を被告の、その余を原告の各負担とする。

四  この判決は原告勝訴部分に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し金一〇〇〇万円およびこれに対する昭和五七年一月九日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  原告の経歴および健康状態

(一) 原告の経歴および健康状態

(1) 原告は昭和一五年三月二〇日に父繁蔵、母須磨の三女として出生した。

原告は子供のとき、風邪などをひいたことがなく、極めて健康であった。

原告は昭和三〇年三月横浜市立港中学を卒業した後、同三一年四月横浜市立港高等学校定時制に入学し、主に印刷屋に勤務する傍ら、ほとんど欠席することなく通学し、同三五年三月同校を卒業した。

(2) 右卒業後、原告は大沢工業株式会社に勤務して経理事務等の仕事に従事していたが、昭和三五年一二月被告に採用され、横浜市児童相談所において受付事務等の仕事に従事した。

児童相談所勤務当時、原告は筆耕技術(いわゆるガリ切りの技術)を持っていたので重宝がられ、種々の文書の筆耕作業にも従事した。

(3) 原告は昭和四二年転職試験に合格し、同四三年四月から保母として勤務することになり、同年四月一五日から被告市立長津田保育園(以下「長津田保育園」という。)に、同四七年六月二日から、被告市立山手保育園(以下「山手保育園」という。)にいずれも保母として勤務するようになり、その後被告市立根岸保育園に転勤し現在に至っている。

(4) 原告は後記3のとおり頸肩腕障害に罹患した(以下、「本件障害」という。)が、本件障害発症に至るまでの既往症は昭和四三年六月頃膀胱炎、同四五年一〇月副鼻腔炎があるに過ぎない。

(二) 原告の家庭の状況

原告は昭和三七年九月鈴木清と結婚し、同人との間に同三八年八月一四日長男高志、同四一年一月一四日二男健二、同四六年六月一四日長女ゆかりが生れた。

2  原告の労働実態とその特徴

(一) 保育労働の実態

保育労働は種々多様な労働から成立っている。これを分類すると次のとおり。

(1) 基本的(生理的)生活習慣確立のための指導介助

イ 食事(昼食、おやつ、授乳)の介助

ロ 排泄の介助

ハ 午睡の介助

ニ 社会性確立のための指導

ホ その他身の回りの世話

(2) 遊びなどの指導

乳幼児は遊びなどを通じて表現力、創造力、自発性、協調性、体力などを発達させていくから、保母にとって乳幼児に対する遊びの指導はもっとも教育的能力を要求される労働である。

イ 歌、お話、遊戯、図工、紙芝居、体操などを通じての指導

ロ 各種の行事、たとえば、誕生会、運動会、遠足、雛祭、クリスマス、節分、お別れ会などの開催

ハ 玩具、遊具を使って遊ぶ乳幼児、プール、砂場などで遊んでいる乳幼児の観察と指導

(3) 健康と安全に対する配慮と指導

いまだ十分な体力、抵抗力を有しない乳幼児について健康と安全に対する万全の配慮は欠かせない。

イ 登園児の視触診

ロ 乳幼児の身体的状態につき保護者からの聞取り

ハ 玩具の消毒、蒲団干し、タオルの洗濯等

ニ 乳児室、保育室等の園内の清掃および園外の清掃

ホ 沐浴の介助

ヘ 暖房器具、電気器具等の点検、作動

ト 玩具、遊具の点検、片付け

チ 怪我の発生時および発病時の救急処置

リ 室内外における乳幼児全員に対する観察と監視

(4) 保育計画の策定、実践、評価

イ カリキュラムの作成

ロ 年間行事の計画

ハ 教材研究

ニ 研修会への参加

ホ 保育日誌の作成

ヘ 保護者への連絡帳の作成

ト 職員会議の開催

チ クラス懇談会の開催

リ 父兄の会との交流

ヌ 父母との面接、指導

(二) 保育労働の特殊性

(1) 人間(それも乳幼児)を対象とした仕事であることから高度の精神的緊張を間断なく余儀なくされる労働である。

保母は絶えず目や耳や口などの身体器官を機能させて乳幼児全体の行動を把握し、乳幼児が危険な行動をとっていないかどうかを常時観察していなければならない。そして、乳幼児に危険が及ぶおそれがあるとき、声を出すなり手を出すなりして、その行動をただちに止めさせる必要がある。保母のこれらの労働は他の乳幼児に対する介助等と同時的、並行的に反復して行われなければならない。たとえば、ある乳幼児に対して食事の介助をしている最中に、他の乳幼児が用便を訴えれば、その介助をしなければならない。

このように、保母は乳幼児の行動に絶えず目配りをしながら、乳幼児の安全と健康、生理的行為の充足を実現するために、常時、精神的、肉体的機能を全面的に駆使している。そして、乳幼児の行動が極めて活発であるからその精神的緊張は極めて高い。

(2) 保母の労働はいつも動き回りしかも自律できない小さな乳幼児の身体的条件、行動に合せ、無理な作業姿勢を余儀なくさせられる労働であり、それに伴う上・下肢・腰部等の負担は大きい。

不自然な作業姿勢の具体的な例は次のとおりである。乳幼児の手洗い介助の際の中腰姿勢、排泄、食事の介助の際のしゃがみ姿勢や中腰姿勢、衣服の着脱の際の膝つき姿勢、床にお尻を付けたままで乳幼児と遊んだり、乳幼児をだっこしたりする際の床座姿勢などである。

また、保母が他の動作をしているとき、乳幼児が前後左右の方向から突然、保母に飛びついたり、ひっぱったり、押したりするので、その衝動に対する上、下肢、頸部などの局部への負担も決して軽視できない。

さらに、保育園の椅子、テーブルなどの諸設備は全て乳幼児の身体に応じて設置してあるから、保母はその利用に際してその都度中腰、しゃがみ姿勢などの姿勢を余儀なくされる。

(3) 前記(1)(2)の事実から保育労働は通常の婦人労働と比較すると強度の負担の伴う労働となっている。

(三) 原告の保育労働の具体的状況

(1) 長津田保育園

イ 原告は昭和四三年四月から同四七年五月まで、長津田保育園に勤務した。その間、原告の担当した園児の状況は次のとおりである。

長津田保育園(昭和四三年四月〜同四七年五月)

昭和四三年度 一、二歳児  六名

同 四四年度   四歳児 一四名

同 四五年度   五歳児 一三名

同 四六年度 一、二歳児 一〇名

(同僚と二人で)

同 四七年度 一、二歳児 一一名

(同僚と二人で)

ロ 長津田保育園の一、二歳児の定員はもともと六名であったが、原告が一、二歳児を担当した昭和四六年度から定員が一二名に増加した。

そのため、一、二歳児の保育は乳児室B、Cで行われるようになったが、BとCとは壁で仕切られていたため、食事の時はB、午睡の時はCというように各部屋を独立させて使用せざるを得なかった。

個々の乳児室の面積が非常に狭いので、子どもが座ると部屋が一杯になり子どもにぶつからないよう保母は体を横にひねるなど非常に不自然な姿勢で動作することを強いられ、食事前後のテーブル、椅子の運搬、午睡前後のベッドの運搬等の業務も余儀なくされた。

ハ また、乳児室に便所がなく、離れたところにある便所は汲取式であったことなど便所は極めて不適切な設備であった。そのため、原告は離れたところにある便所まで園児を抱きかかえて連れていくことが頻繁にあった。また、汲取式の便所のため、園児の安全に気を付けなければならないし、園児とくに一、二歳児が不安感、恐怖感を抱くため、介助の必要性が高かった。

ニ 保母は乳児室のストーブ、保育室のコールヒータに補給する石炭、石油の運搬をした。また、用務員が全く配置されていなかったので、保母は椅子、テーブル、ベッドの配置替え、午睡の蒲団敷き、カバーの取替え、蒲団、べッドの日光浴のための運搬、乳児室、保育室の清掃等の雑用をしなければならなかった。

また、作業員(調理員)が一人しか配置されていなかったため、その作業員が休んだ場合、保母がその仕事を行わなければならなかった。

ホ 保母の仕事の特質、人員の少なさのため完全な休憩が取れず、取れた場合にも休憩室自体がないため十分休憩することができない。

ヘ そのほか、原告は筆耕の経験があったので、園だより、卒園文集など各種の文書の作成をほぼ一手に引き受け、家庭に持ち帰って右作業をした。

(2) 山手保育園(昭和四七年六月〜同五二年五月)

イ 原告は昭和四七年六月新設の山手保育園に主任保母として勤務するように命じられた。原告が同保育園において担当した園児は次のとおりである。

昭和四七年度 一、二歳児  六名

同 四八年度   三歳児 一六名

同 四九年度   五歳児 二七名

同 五〇年度 一、二歳児  六名

同 五一年度 一、二歳児  六名

(同僚と二人で)

同 五二年度 一、二歳児  六名

(同僚と二人で)

ロ 山手保育園は新設されたばかりの保育園であるので、他の保育園とは異なる特徴を有していた。園児は全て新入園児であり、集団生活の経験は始めてであった。

しかも、原告を除く他の三人の保母および作業員は全て新採用であった。

また、保育園長は全く児童福祉事業に従事した経験がなかった。

このような事情の中で、原告は開園当初から、主任保母として大きな責任と指導的役割を果さざるを得なかった。

ハ 原告は開園に伴う業務として、次のことを行った。

建築後の残骸の整理、清掃、園庭の整備

入園児の名簿作成

入園児の父兄に対する個人面接

入園式、開園式の準備と実行(入園式、開園式案内の作成送付、式の段取等の打合せなど)

保育材料の購入、点検、作成

乳児室、保育室の装飾、整備

職員会議の開催

ニ また、原告は開園後も行事の開催、父兄会との連絡、調整、時間外託児福祉指導員に対する指導、連絡、園長不在時の来客の対応など、保育園運営の全搬にわたって指導的役割を果していた。

(四) 原告の保育労働における特別の過重性

原告の保育労働については長津田保育園では主として設備の不備等からくる過重性があり、山手保育園では主任保母として新設保育園の開園準備等による過重性があった。

3  発症、増悪とその公務起因性

(一) 発症と増悪

(1) 原告はかかる業務の中で長津田保育園に勤務していた頃の昭和四五年九月頃から肩、背中の痛みを時々感じはじめるようになり、その症状は消退することなく継続していた。とくに、各種の行事開催のため多忙な時などは肩、背中の痛みを強く感じていた。

(2) 原告は昭和四七年四月、一、二歳児を担当することになったが、その頃から、従前の自覚症状に加えて、右腕、肘の痛みが激しくなってきた。そのため、接骨院でマッサージを受けるようになったが、それでも症状は一向に改善されず、その頃、原告は電車、バスのつり皮につかまっているのも苦痛であった。

(3) このような症状をかかえて、原告は昭和四七年六月二日山手保育園に転勤したが、前記症状は消退するどころか増悪する一方のため、同年九月四日汐田病院において診察を受けたところ「頸肩腕障害」と診断され、その後も現在に至るまで原告の症状は一向に治癒せず、治療継続を余儀なくされている。

(4) 昭和四七年一〇月から同四八年三月の間同僚の長期休暇による合同保育業務に従事するなどの状況の中で、右腕の痛み、肩の痛みが増悪した。

(二) 原告の本件障害は原告が保母の業務に従事したことにより発症したもので公務上疾病である。

4  被告の債務不履行責任

(一) 使用者は労働契約上、その使用にかかる労働者の生命、身体の安全を保護し、健康を保持させるべく、労働条件、安全衛生、健康管理等につき万全の措置を講ずべき高度の注意義務を有している。

(二) そもそも保母が従事する保育業務は一般的にみても、「生きた乳幼児」を相手とするだけに肉体的・精神的な疲労、負担を伴う特殊な労働である。

昭和四五、六年当時には、公立、私立の保育園を問わず、保育労働に従事する保母に、腰痛や頸部、肩、腕の凝り、しびれ、疼痛等の健康障害を訴えるものが多発し始め、その原因が精神的・肉体的に苛酷な負担を強いられる保育労働に従事したことによるものであるとして、業務上、公務上の災害(疾病)であるとの認定を求めるケースが公・私立の別を問わず全国的に続出し、その結果、これらの障害についても業務上、公務上と認定されるケースも出始めた。

また、横浜市従業員労働組合は保母に「頸肩腕症候群」が発生しているが、これは「職業病」とみるべきであり、その改善のためには、労働時間の短縮、必要人員の確保、設備の改善、休憩時間の確保などの措置を取ることが必要であると要求していた。

したがって、昭和四五、四六年当時、すでに保母をめぐる健康障害として右のような状況にあったのであるから、被告は自己の被用者である保母について頸肩腕障害の発病のおそれがあることを当然予見し、あるいは予見することが可能であった。

(三) したがって、被告は原告に対し、以下の注意義務を負っていた。

(1) 被告は、適宜な人員配置、十分な休憩時間の設定、確保並びに休暇の保障、業務量の適正化ないし軽減化、施設上の不備からくる肉体的・精神的疲労を防止するための設備の整備、肩凝り等をほぐすための体操・スポーツ等の指導など頸肩腕障害の予防のための教育とその実施、健康診断などの健康管理の有効かつ適切な実施などにより、かかる疾病を予防すべき義務を負っている。

(2) また、被告は、健康障害の有無について労働者に事情を聴取するなどして頸肩腕障害の症状を呈する労働者を早期に発見する義務、かかる労働者を発見した場合には、早期に適切な治療措置を講ずべき義務、そして、病状の増悪を防止し健康の回復を図るため、病状の悪化につながる業務の量的、質的な規制措置を講ずべき義務を負っている。

(四) しかるに、被告は以下のとおり、前記注意義務を怠った。

(1) 被告は、その職務の性質上頸肩腕障害、腰痛等の疾病に罹患する者が多いことを十分に認識していたにもかかわらず、原告が頸肩腕障害に罹患するまでその罹患を防止する適切な措置をなんら取らなかったばかりか、原告の罹患後も、その増悪防止のために必要かつ適切な措置をなんら取らなかった。すなわち、

イ 原告が昭和四三年長津田保育園に、初めて保母として保育業務に従事した際事前になんらの研修、実習を行わなかった。そのため、それでなくとも多大の精神的・肉体的負担を強いられる保育業務であるのに、不慣れな原告の精神的負担は一層増大した。

ロ また、被告は原告のために休憩を確保せず、休憩室もなく、休暇を取ることも困難であった。

ハ 乳幼児室内に便所の設置がなく、離れたところにある便所は汲取式であったこと、保育室等が手狭であるなど施設面でも不備があった。

ニ また、必要な保母の人員が配置されていないし、用務員の配置が全くない。したがって、原告ら保母は各種の雑用をしなければならなかった。さらに、調理員が一人しか配置されていなかったから、同人が休んだ場合には原告ら保母が調理をしなければならなかった。

ホ また、原告が筆耕の経験があることで「園だより」などの各種の文書の作成(筆耕作業)をほぼ一手に引き受けさせて規制することがない。

ヘ 肩凝りをほぐす体操等の指導、実施もしない。早期に発見する上で有効かつ適切な健康診断も実施しなかった。

(2) これらの措置を尽くさなかった結果、昭和四五年九月にいたり、「肩、背中の痛み」を発生させたが、被告は原告の頸肩腕障害の症状を早期に発見することを怠り、さらに、これを発見した時にも、就業制限・業務の軽減、早期治療などを適切に行って、病状がさらに悪化(増悪)することを防ぎつつ、その健康を回復させることを怠った。

(3) さらに、被告は健康障害の有無について労働者に事情を聴取したり、その把握に努め、早期に適切な治療措置を講じなかった。

(4) また、被告は病状の増悪を防止し、健康の回復を図るため、病状の悪化につながる業務の量的、質的な規制措置を講じなかったばかりか、以下のとおり、原告の業務負担を増加させた。

イ 昭和四六年四月から同四七年三月までの間、乳児室の定員が六名であったのに一二名の乳児(一、二歳児)を収容して原告にその保育を担当せしめ、原告の精神的、肉体的な負担をさらに増大させた。

ロ また、昭和四七年四月、原告に一、二歳児一一名の保育を担当させ、負担を増大した。

ハ 昭和四七年六月、原告を新設の山手保育園に主任保母として転勤させ、同保育園においてなんら業務の軽減措置を講じなかったし、休憩を確保する措置を講じなかった。手狭な施設の改善等もなさず、保母の人員をはじめ、用務員、調理員についても適正な人員配置を怠った上、原告に用務員や、調理員の仕事をさせ、特に、昭和四七年八月に一〇日間続けて保育の仕事に加えて、調理員の調理の仕事に従事させた。

(5) 原告が昭和四七年九月四日汐田病院で診察を受け、「頸肩腕症候群(後に頸肩腕障害)」と診断され、治療のため、通院する事態になっても、業務の軽減措置を講じなかったし、休憩を確保する措置を講じなかった。かえって、業務の負担を増大させた。すなわち、昭和四七年一〇月から同四八年三月までの間(延べ六か月間)原告の同僚保母の長期休暇により、原告に一、二、三歳児一一名ないし一五名を原告一人に担当させる「合同保育(混合保育)」を行わせた。

(五) 以上のとおり、被告は原告に対し、原告の健康を保講すべき義務があるにもかかわらず、前記各種の措置を講ぜず、原告に「頸肩腕障害」を発病させ、さらにこれを増悪させたものである。

5  損害

原告は前記公務上の疾病により、長期にわたり、肉体的苦痛を受けてきたが、そのため、主婦として当然やらなければならない家事、育児も十分にできず、多大の精神的苦痛も同時に受けた。

かかる原告の肉体的、精神的苦痛、治療期間、治療の見通しの不明さ等を総合考慮すると、原告の本件疾患に対する慰謝料としては金一〇〇〇万円が相当である。

6  よって、原告は被告に対し右慰謝料金一〇〇〇万円およびこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和五七年一月九日から完済まで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する答弁

1  請求の原因1(一)(1)の事実のうち、原告が、昭和一五年三月二〇日に父繁蔵、母須磨の三女として出生したこと、同三〇年三月横浜市立港中学校を卒業した後、同三一年四月横浜市立港高等学校定時制に入学し、同三五年三月同校を卒業したことを認め、その余は不知。

同1(一)(2)の事実のうち、原告が、大沢工業株式会社に勤務したこと、昭和三五年一二月被告に採用され、横浜市児童相談所において受付事務等の仕事に従事したことを認め、その余は不知。

同1(一)(3)の事実のうち、原告が山手保育園に勤務を始めた年月日を否認し、その余は認める。

同1(一)(4)の事実は不知。

同1(二)の事実は認める。

2  同2(一)の事実が保育労働の実態であるという意味であれば否認する。原告が各項で主張している内容は、保育業務のうち考え得るあらゆる業務を単に羅列したものに過ぎない。

同2(一)(1)の事実はある保育園に入園している当該年度の四月一日現在の零歳児から五歳児までの全ての乳幼児に対する保育業務の考え得るあらゆる日常的業務の列挙という意味では特に争わないが、ある保母の業務の実態という意味であれば、否認する。保育園の保母は零歳児から五歳児まで、それぞれ乳幼児の年齢に応じて、クラス分けされた担当乳幼児を保育するものであるから、ある一人の保母が原告主張の業務を全て毎日行っている訳ではない。

同2(一)(2)の冒頭部分の「遊び」の意義および「遊び」の指導が保母の業務であることは認める。但し、「指導」とはそれぞれの年齢に応じて園児の行動を観察し、かつ、必要に応じて注意することなどを意味する。

同2(一)(2)イないしハの内容の業務があることを認めるが、ある一人の保母が全て行うという意味では否認する。

同2(一)(3)の冒頭部分につき被告は明らかに争わない。

同2(一)(3)イは認める。但し、医療行為に及ぶような触診は行っていない。

同2(一)(3)ロは認める。

同2(一)(3)ハのうち蒲団干し、タオル(共用のタオルを除く)の洗濯等は否認する。玩具の洗濯をすることもあることは認める(但し、乳幼児の玩具についてのみである。)。

同2(一)(3)ニのうち乳児室、保育室の清掃を行うことは認めるが、園外の清掃については時間外託児福祉員又は保育所作業員が主として行っている。

同2(一)(3)ホは否認する。現在保育業務の内容となっている保育園もあるが、原告が勤務していた当時の保育園では必ずしも保育業務とはなっていなかった。

同2(一)(3)ヘは認める。但し、点検、作動は主として時間外託児福祉員が行っている。

同2(一)(3)トのうち片付けはある一人の保母の業務の内容としては否認する。担当園児の年齢によって異なる。

同2(一)(3)チは認める。

同2(一)(3)リは否認する。一人の保母が乳幼児全員に対する観察と監視をすることはあり得ない。それぞれ担当保母が担当別に行っている。

同2(一)(4)の事実は認める。

イ カリキュラムの作成は月一回個別的行事計画と一緒に行っている程度である。

ロ 年間行事計画の作成は年一回程度である。

ハ 教材研究は必要に応じて行う。

ニ 研修会への参加は現在においては年二回程度である。

ホ 保育日誌の作成は毎日行う。

ヘ 保護者への連絡帳の作成は時間外保育対象児について書くことが多く、全児童について書いているわけでない。

ト 職員会議の開催は月一回程度である。

チ クラス懇談会の開催は年一回程度。

リ 父兄の会との交流は年一回程度。

ヌ 父母との面接、指導は年二回程度。

同2(二)(1)の主張は否認する。

同2(二)(2)の事実は否認する。保育室には保母の数に応じた事務机、椅子が配置されており、保母の業務を行うために園児用の椅子、テーブルなどを使わざるを得ないことは稀である。三歳以上の幼児については児童保育指導の一環として児童に椅子、テーブルなどの運搬等も行わせており、保母が全て行うわけでない。

同2(二)(3)は争う。

同2(三)(1)イの事実のうち、原告が昭和四三年四月から同四七年五月まで、長津田保育園に勤務したこと、同四三年度の担当園児数、同四五、四七年度の担当および園児数は認め、その余は否認する。原告の担当は以下の通りである。

昭和四三年度 一、二歳児担当

四月から六月まで一歳児二名、二歳児四名

同 四四年度  四歳児担当

四月から翌年三月まで一二名

同 四五年度  五歳児担当

四月から翌年三月まで一三名

同 四六年度 一、二歳児(二人の保母で担当)

四月から八月まで一歳児一名、二歳児九名

九月から翌年三月まで一歳児なし、二歳児九名

同 四七年度 一、二歳児(二人の保母で担当)

四月から五月まで一歳児五名、二歳児六名

同2(三)(1)ロの事実は否認する。

同2(三)(1)ハの事実のうち乳児室に便所が設置されていなかったこと、便所と乳児室が離れていたこと、原告が勤務していた当時便所が汲取式であったことは認め、その余は否認する。

同2(三)(1)ニの事実のうち乳児室の暖房がストーブ、保育室の暖房がコールヒーターであったこと、用務員という名称の職員が配置されていなかったこと、作業員(調理員)が一人しか配置されていなかったことは認める。一般論としては乳児担当の保母が交代で石油の運搬、補給をした。また、椅子、テーブル、ベッドの配置替えは年に二ないし三回程度保母全員で行うにすぎない。午睡の蒲団敷きを乳児の分は担当保母が行うが、幼児の分は保母が幼児に蒲団を手渡す程度である。カバーの取替は週一回くらいの割合で行うが、乳児の分は担当保母が行い、幼児の分は幼児が自分で行っている。蒲団、ベッドの日光浴は週一回程度の割合で、晴れた日にのみ行い、乳児の分は担当保母が行い、幼児の分は父兄が蒲団を出し、担当保母が幼児に手伝わさせて蒲団を入れる。

また、作業員(調理員)が休んだときその仕事を行ったのは先輩保母であり、原告が行ったことはほとんどない。

同2(三)(1)ホの事実は否認する。休憩室という名称の部屋はないが、事務室を休憩室としていた。

同2(三)(1)ヘの事実のうち、原告が園だより、卒園文集などの文書の筆耕作業を行ったことは認めるが、その余は否認する。保母間の業務の分担として筆耕を行ったにすぎない。

同2(三)(2)イの事実のうち原告が昭和四七年六月新設の山手保育園に保母として勤務を命じられたことおよび原告が担当した園児数は認める。被告が原告を主任保母に任命したことは否認する。原告は上席の保母であり、慣用的に「主任保母」といわれていた。

同2(三)(2)ロの事実のうち園児は全て新入園児であり、集団生活の経験は始めてであった点は否認する。集団生活の経験のある園児もいた。

原告を除く他の三人の保母および作業員は全く新採用であったこと、保育園長は全く児童福祉事業に従事した経験がなかったことは認める。新規採用の保母三名は研修、現場実習を経た後、既設の保育園に応援保母として赴任して、保母としての業務に従事した後、山手保育園に配属された。新規採用の保母は原告より一〇日も前に山手保育園に配属され、開園準備を園長とともに行っており、原告が主張するほど原告に負担をかけたわけではない。園長は児童福祉事業に二年以上従事したことはないが、児童福祉施設を適切に運営する能力を十分に有していた。

原告が開園当初から主任保母として大きな責任と指導的役割を果したことは否認する。

同2(三)(2)ハの事実のうち原告が開園に伴う業務として、建築跡の残骸の整理をしたことは否認する。清掃、園庭の整備は認める。

入園児の名簿作成は認める。原告は担当児童について作成したもので、主任保母として作成したものでない。

入園児の父兄に対する個人面接は認める。但し、原告は担当クラスの父兄に面接したもので、主任保母として面接したものでない。

入園式、開園式の準備と実行は認める。但し、開園直前に赴任した原告の関与は少ない。

保育材料の購入等は否認する。保育材料の購入等は園長がした。

乳児室、保育室の装飾、整備は認める。但し、各クラス担当の保母および作業員が協力して行った。

職員会議の開催は認める。但し、月一回程度である。

同2(三)(2)ニの事実のうち、原告が開園後も保育園運営の全般にわたって指導的役割を果していたとする点は否認し、その余は認める。

同2(四)の事実は否認する。

3  同3(一)(1)の事実は不知。

同3(一)(2)の事実のうち原告が昭和四七年四月に一、二歳児を担当することになったことは認め、その余は不知。

同3(一)(3)の事実のうち、原告が昭和四七年六月二日山手保育園に転勤したこと、同年九月四日汐田病院にて診察を受けたことは認め、その余は不知。

同3(一)(4)の事実は否認する。

同3(二)の事実は否認する。

4  同4(一)の主張は一般論としては認める。

同4(二)第一段落の事実のうち、保育業務は生きた乳幼児の集団を対象とした業務であるという意味で一般事務の業務などとは異なる点があることは認めるが、非常に肉体的・精神的に疲労・負担を伴う特殊な労働であることは否認する。

同4(二)第二段落の事実は否認する。横浜市立保育園の保母一名および保育所作業員一名が昭和四九年七月に公務上頸肩腕障害に罹患したとして、地方公務員災害補償基金横浜市支部に対し公務災害認定請求をなし、同支部長が同五一年四月両名の疾病を公務上災害と認定した例があるにすぎない。同四九年七月以前に公務災害認定請求がなされたことはない。

同4(二)第三段落の事実は認める。前記労働組合の要求書には到底職業病とは考えられないものが多数列挙されている。

同4(二)第四段落の事実は否認する。

同4(三)の主張は否認する。

同4(四)(1)の事実の冒頭部分は否認する。

同4(四)(1)イの事実は否認する。不慣れな原告に対し先輩保母が日誌の書き方、カリキュラム作成の方法等につき指導した。子どもの保育についても職員会議等で助言、指導した。オルガンの演奏が苦手な原告に対しては乳児担当にするなどの配慮をした。

同4(四)(1)ロの事実は否認する。昭和四三年当時休憩時間は午後一時から三時までの間に十分確保されていた。原告は年次有給休暇はもちろん、毎月生理休暇、夏期休暇も十分に取っていた。

同4(四)(1)ハの事実のうち、乳幼児室内に便所の設置がなく、離れたところにある便所は汲取式であったことは認め、その余は否認する。

同4(四)(1)ニの事実のうち、用務員が配置されていなかったことは認め、その余は否認する。保育所作業員が休むこと自体それ程多くはないし、休んだ場合にも主として先輩の保母および園長が調理をしていた。原告の関与は極めて少ない。

同4(四)(1)ホの事実のうち、原告が筆耕の経験があること、原告が「園だより」などの各種の文書の筆耕作業をしたことは認め、その余は否認する。原告から筆耕作業は慣れているからこれをさせてほしい旨申し出があったので、保母間の業務分担として行ったもので、原告の業務が特に加重されたわけではない。

同4(四)(1)ヘの事実につき明らかに争わない。体操などは自らいつでも、どこでも、心がけ次第で十分できることであるから、市の指導によらなければできないことではない。

同4(四)(2)の事実は否認する。

同4(四)(3)の事実は否認する。

同4(四)(4)の事実のうち、原告が、昭和四七年四月一、二歳児を担当したこと、同四七年六月新設の山手保育園に転勤したこと、同四七年八月に調理員の調理の仕事をしたことを認め、その余は否認する。

同4(五)は争う。

5  同5の事実のうち、原告が主婦として当然やらなければならない家事、育児も十分にできず、多大の精神的苦痛も同時に受けたことは不知、その余は否認する。

6  同6は争う。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求の原因1(一)(1)の事実のうち、原告が、昭和一五年三月二〇日に父繁蔵、母須磨の三女として出生したこと、同三〇年三月横浜市立港中学校を卒業した後、同三一年四月横浜市立港高等学校定時制に入学し、同三五年三月同校を卒業したこと、同1(一)(2)の事実のうち、原告が、大沢工業株式会社に勤務したこと、同三五年一二月被告に採用され、横浜市児童相談所において受付事務等の仕事に従事したこと、同1(一)(3)の事実のうち原告が山手保育園に勤務を始めた年月日を除くその余の事実、同1(二)の事実は当事者間に争いがない。

〈証拠〉によれば、以下の事実が認められる。

1  原告は児童相談所では措置係として、各種用紙の筆耕の仕事もしていた。

2  原告は長津田保育園に転勤して三か月後、昭和四三年六月頃に膀胱炎に、同四五年一〇月副鼻腔炎に罹患したことがある。

3  原告が山手保育園に勤務を始めたのは昭和四七年六月二日である。

右認定に反する趣旨の〈証拠〉は前顕各証拠と対比すると措信できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

原告が本件障害発症に至るまで右認定の病気のほか他に大きな病気をしたと認めるに足りる証拠はない。

二保育労働の実態について

1  請求の原因2(一)(1)の事実はある保育園に入園している当該年度の四月一日現在の零歳児から五歳児までの全ての乳幼児に対する保育業務の考え得るあらゆる日常的業務の列挙という意味で当事者間に争いがない。

同2(一)(2)の冒頭部分の「遊び」の意義および「遊び」の指導が保母の業務であること、同2(一)(2)イないしハが保母の業務であることは当事者間に争いがない。

同2(一)(3)の冒頭部分およびト記載の業務が一般的に保母の業務であることにつき被告は明らかに争わないから、これを自白したものと見なす。

同2(一)(3)イ、ロの事実、ハのうち保母が玩具の洗濯をすることもあること(但し、乳幼児の玩具についてのみである。)、ニのうち保母が乳児室、保育室の清掃を行うこと、ヘ、チの事実、同2(一)(4)の事実(ただし、被告にはその回数、程度について主張がある。)は当事者間に争いがないが、その余の原告の請求の原因2(一)の主張事実は認めるに足りる証拠はない。

2  保育労働の特殊性

〈証拠〉によれば、以下の事実が認められる。

(一)  保育労働の対象は自律性のない幼い子供である。幼い子供は大人の補助を必要とするが、勝手に動き回って行動の予測は困難である。保母はこのような幼い子供の動きに合せて、しかも多数の子どもを相手にし、その一人一人の動きに合せて対処することを要求される。このような保育労働の対象の特殊性はその労働の態様の特殊性として現れる。

(二)  すなわち、子供の動きに合せる必要があるから、保母の労働は受身的で、かつ、拘束性が強く、他律的な作業とならざるを得ない。また、保母は子供の表情や食欲、便尿の状態、顔色、子供の行動の場の状況等に絶えず注意し、一人一人の子供の動きに合った対処を要求されるので保母の労働は気が抜けない作業である。

(三)  さらに、保母は作業中不自然な作業姿勢をとらなければならないことが多い。たとえば、乳幼児の排泄・食事を介助する際のしゃがみ姿勢や中腰姿勢、衣服の着脱を介助する際の膝つき姿勢、床にお尻を付けたままで乳幼児と遊んだり、乳幼児を抱っこしたりする際の床座姿勢などである。また、保育園の椅子、テーブルなどの諸設備は乳幼児の身体に応じて設置してあるから、保母はその利用に際してその都度中腰、しゃがみ、前屈、片膝立て、正座などの姿勢をとらなければならない。

他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

なお、保母が他の動作をしているとき、乳幼児が前後左右の方向から突然、保母に飛びついたり、ひっぱったり、押したりすること、その衝動によって上・下肢、頸部などの局部への負担がかかることについては明確な直接証拠はないが、一般的な経験則から右の事実を推認することができる。

右の事実によれば、保母はたえず乳幼児全体の行動を常時観察、把握し、その行動に対処しなければならず、しかも他の乳幼児に対する介助等と同時的、並行的に行わなければならないことが認められるから、保育労働はたえず精神的緊張を要求される労働であること、乳幼児の身体的条件、行動に合せた労働であるため、無理な作業姿勢をとり、上・下肢、腰部等へ負担となることの多い労働であると認められる。

三原告の保育労働の具体的状況について

1  長津田保育園(昭和四三年四月〜同四七年五月)

(一)  請求の原因2(三)(1)の事実のうち以下の事実は当事者間に争いがない。

(1) イの事実のうち、原告が昭和四三年四月から同四七年五月まで、長津田保育園に勤務したこと、同四三年度の担当園児数、同四五、四七年度の担当および担当園児数。

(2) ハの事実のうち、乳児室に便所が設置されていなかったこと、便所と乳児室が離れていたこと、原告が勤務していた当時便所が汲取式であったこと。

(3) ニの事実のうち、乳児室の暖房がストーブ、保育室の暖房がコールヒーターであったこと、用務員という名称の職員が配置されていなかったこと、作業員(調理員)が一人しか配置されていなかったこと。

なお、被告も以下の事実をその限度で認めている。乳児担当の保母が交代で石油の運搬、補給をしたこと、また、椅子、テーブル、ベッドの配置替えは年に二ないし三回程度保母が全員で行うこと、午睡の蒲団敷きを乳児の分は担当保母が行うが、幼児の分は保母が幼児に蒲団を手渡す程度であること、カバーの取替は週一回くらいの割合で行うが、乳児の分は担当保母が行い、幼児の分は幼児が自分で行っていること、蒲団、ベッドの日光浴は週一回程度の割合で、晴れた日にのみ行い、乳児の分は担当保母が行い、幼児の分は父兄が蒲団を出し、担当保母が幼児に手伝わせて蒲団を入れること。

(4) ヘの事実のうち、原告が園だより、卒園文集などの文書の筆耕作業を行ったこと。

(二)  次に、〈証拠〉によれば、以下の事実が認められる。

(1) 長津田保育園は住宅街の凹地に昭和四〇年に建設された六〇名定員の保育園で、職員は園長一名、保母四名、作業員一名である。厚生省基準によると六〇名定員の保育園の場合、園長一名、保母三名、作業員二名であるが、横浜市は職員団体との話合いで保母一名増とし、作業員一名減としている。施設の略図は別紙図面のとおりである。建物は南向きである。

(2) 原告の担当は以下の通りである。

昭和四三年度 一、二歳児  六名

同 四四年度 四歳児   一四名

同 四五年度 五歳児   一三名

同 四六年度 一、二歳児 一一名

(うち、同四六年四月時点で二歳児一〇名、一歳児一名。同僚と二人で)

同 四七年度 一、二歳児 一一名

(同僚と二人で)

(3) 長津田保育園における一、二歳児の措置定員は昭和四三年当時六名であり、保母一名がこれを担当していたが、同四四年からは措置定員一二名となり、保母二名がこれを担当するようになった。

厚生省の基準によると、一、二歳児を一二名保育する場合保育室の面積は二九・七平方メートルである。長津田保育園では乳児室は二つに仕切られているが、二つを合せると、三六平方メートルあり、厚生省の基準に適合している。

なお、長津田保育園の一、二歳児の措置定員は同四八年度から八名となり、保母二人がこれを担当することとなり、さらに、同五二年以降措置定員は一二名となり、乳児室の面積は一歳児、二歳児を分けて、それぞれ三八平方メートルとなった。

(4) 乳児室の面積は厚生省の基準に適合しているとはいえ、二つに仕切られているためにそれぞれの乳児室は狭く、四つある食事用テーブルに子どもが座ると部屋が一杯になり、保母は食事の指導、介助等に際し体をひねったり、横歩き、子供の後からかがむなどの不自然な姿勢を強いられることが多い。

また、部屋の中で遊ぶ空間を造るのにテーブルや椅子を移動したり、廊下にあるベッドを午睡のために部屋に入れ、終るとまた廊下に持ち出すなどの作業が必要である。

さらに、部屋の仕切りで見えない部分があり、見えない子供の動きに神経を使わなければならない。

(5) また、乳児室に便所がなく、同室から離れたところにあり、しかも汲取式便所であったため、原告は離れたところにある便所まで乳幼児を抱きかかえて連れて行かなければならないし、汲取式のため、保母は園児を両腕で支え、前かがみになって介助する必要があった。

(6) 午前八時三〇分の出勤から午後四時三〇分の退園までの間子どもの排泄・手洗いの介助、午前のお八つ・戸外の遊び指導・介助、給食の準備・指導介助、午睡の準備、パジャマの着脱の介助、午後のお八つの準備・指導介助等間断なく作業が続き、しかも子供一人一人のテンポが違うので規則正しく、十分に休憩、昼休みを取ることができない。しかも、休憩室がないため、休憩を取るとしても子供の様子をのぞきながら事務室でお茶を飲む程度である。

(7) また、作業員が休んだ場合には、保母が代替したり、昼食時の繁忙時には応援する体制をとった。

(8) カリキュラムおよび行事表の筆耕作業も原告がした。これらの文書は年に一回作成するものである。他に原告が筆耕した園だよりは月一回、卒園文集は一度作成された。

右認定に反する趣旨の〈証拠〉は前顕各証拠と対比すると措信できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

2  山手保育園

(一)  以下の事実は当事者間に争いがない。

(1) 請求の原因2(三)(2)イの事実のうち原告が昭和四七年六月新設の山手保育園に保母として勤務を命じられたこと。

(2) 同2(三)(2)ロの事実のうち、原告を除く他の三人の保母および作業員は全て新採用であったこと、保育園長は全く児童福祉事業に従事した経験がなかったこと。

(3) 同2(三)(2)ハのうち原告が開園に伴う業務として、清掃、園庭の整備、入園児の名簿作成、入園児の父兄に対する個人面接、入園式、開園式の準備と実行、入園式、開園式案内の作成送付、式の段取等の打ち合せ、乳児室・保育室の装飾・整備、職員会議の開催等をしたこと。

(4) 同2(三)(2)ニのうち、原告が開園後も行事の開催、父兄会との連絡、調整、時間外託児福祉指導員に対する指導、連絡、園長不在時の来客の対応などしたこと。

(二)  〈証拠〉によれば、以下の事実が認められる。

(1) 山手保育園は、昭和四七年六月に新設された六〇名定員の保育園で、職員の構成は園長一名、保母四名、作業員一名である。同園の施設の略図は別紙図面のとおりである。

(2) 原告は上席の保母であり、慣用的に「主任保母」といわれていた(以下の記述で原告を主任保母というのは右の意味においてである。)。

(3) 大多数の園児は山手保育園に入る以前に保育園生活の経験がなかったので、順応できず、母親から離れると、泣いたり、騒いだりするので、園児を落着かせるのに時間がかかるし、食事のできない子、昼寝の習慣のない子などがいて、より丁寧な指導を必要とした。

(4) また、昭和四七年八月七日から一五日まで調理員の内田洋子が休暇をとった時、原告は廚房に入り、調理をした。

(5) 山手保育園の保母森重邦子(以下「森重」という。)は昭和四七年一〇月五日から切迫流産で欠勤し、同人の欠勤状態は同四八年三月末日まで続いた。ただし、森重は同四七年一一月二五日から同年一二月六日までの間、一二月一日および祝祭日を除き出勤した。

当時森重はもも組(三歳児)一〇名を担当し、原告はたんぽぽ組(一、二歳児)六名を担当していた。森重が欠勤した時、他の保母は新人であって森重の欠けた後を応援するだけの余裕がなかったので、原告が森重の担当するもも組を引き受けることとなった。

その後、同四七年一一月一日から熊沢千代子がアルバイト保母として勤務し、森重が担当していたもも組の保育を担当した。同人は保母の資格はあるが、保育実務の経験がなく、同人にもも組の担当を任せ切ることができない状態であった。しかも同人は一一月一日から二一日までの間に五、六日欠勤した後同年一一月二一日に退職した。

同四八年一月一一日これまでの四クラスのうちもも組を分散解消して三クラス編成とした。もも組の二歳児五人を原告の担当するたんぽぽ組に、三歳児はすみれ組へ編入した。そこで原告は一一名をたんぽぽ組の部屋で担当することとなった。同年一月一八日から同年三月三一日まで時間外託児福祉員の粂川晴美が原告担当のクラスを補助した。しかし、同人は保母の資格はなかったし、園児の食事時から午睡時までの約二時間原告の補助をしたにすぎない。

(6) 山手保育園でも長津田保育園と同様、原告を始めとして保母は十分な規定どおりの昼休み、休憩を取ることができない状況にあった。

右認定を覆すに足りる証拠はない。

(三)  右事実によれば、新設の保育園は開園準備それ自体で、多忙をきわめるのに、同僚保母職員は経験不十分であったことから、原告が指導的役割を果さざるを得ず、しかも、原告自身新任の主任保母として未経験かつ重要な任務を担当することになったので、開園準備それに続く保育労働により肉体的、精神的負担が大きかったであろうことは優に推認することができるところであり、さらに、同僚保母の休暇取得その他によって変則的な保育が続き、以下のとおり十分な休暇を取ることができなかったことなどから肉体的負担、疲労も増大したであろうことも推認することができる。

3  原告の休暇取得、時間外勤務

証拠によれば、以下の事実が認められる。

(一)  原告の休暇取得の状況は次のとおりである(単位は日。年休とは年次有給休暇、他とは年次有給休暇以外の休暇をいう。)。

一月

二月

三月

四月

五月

六月

七月

八月

九月

一〇月

一一月

一二月

昭和四七年

年休

五半

四八年

年休

三半

三半

四九年

年休

一半

一半

一半

五〇年

年休

三半

二半

二半

一半

一半

五一年

年休

二半

二半

一半

一半

一〇

三半

一半

(二)  原告の時間外勤務の状況は次のとおりである(単位は時間)。

一月

二月

三月

四月

五月

六月

七月

八月

九月

一〇月

一一月

一二月

合計

昭和四五年

一七

一〇

八〇

四六年

一一

一五

一五

七四

四七年

一五

八一

四八年

一〇

一一

一〇

一二

九五

四九年

一〇

ただし、予算上時間外手当の支給には制限があったから、時間外の実働時間は手当の支給される時間を相当超過していた。

右の認定に反する趣旨の〈証拠〉は前顕各証拠と対比すると措信できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

右事実によれば、原告は山手保育園に転勤した昭和四七年六月から翌四七年五月頃まで夏休み以外に十分な休暇を取っていないこと、相当時間の時間外勤務をしたことは明らかである。

四保母の健康障害

〈証拠〉によれば、次のことが認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

1  頸肩腕障害

昭和三〇年代、キーパンチャーに前腕から手の痛み、肩凝り、腕のだるさ、目の疲れ、いらだち、不眠等の障害が発生するようになったが、医学的には手背部の腱の腫れ、痛みが中心症状とされ、「腱鞘炎」又は「キーパンチャー障害」と呼ばれた。

同三九年九月一六日付通達(基発第一〇八五号)において、キーパンチャー障害は職業病として認定された。キーパンチャー障害と類似した疾病は、電話交換手、チェッカー、タイピスト、流れ作業従事者、複写事務作業者においても多発し、この頃からこれらの職業従事者に発症する前記諸症状を総称して「頸肩腕症候群」と名付けられた。

その後、一般事務作業者、保母、看護婦、書店複合作業者にも、頸、肩、腕の障害だけではなく目の疲れ、精神的疲れ、背部、腰部の疲れ等の症状が認められた。

これらの障害については、発症のメカニズムに定説がなく、症状が多様であることから、便宜的な診断名のもとに無計画に処理してきたとの反省のもとに、日本産業衛生学会頸肩腕症候群委員会は同四七年度の報告で、頸肩腕症候群、腱鞘炎などの診断名を改めて、頸肩腕障害とすべきことを提案し、その定義と病像の分類を次のように明らかにした。

(一)  定義 業務による障害を対象とする。すなわち、上肢を同一肢位に保持、又は反復使用する作業により神経・筋疲労を生ずる結果おこる機能的あるいは器質的障害である。

但し、病像形成に精神的因子および環境因子の関与も無視し得ない。したがって本障害には従来の成書にみられる疾患(腱鞘炎、関節炎、斜角筋症候群など)も含まれるが、大半は従来の尺度では判断し難い性質のものであり、新たな観点に立った診断基準が必要である。

(二)  病像の分類

以下のような経過をとり、病像が進展することが多い。但し、急性に発症又は症状の増悪した症例については、経過を観察して、診断を確定する必要がある。

Ⅰ度:必ずしも頸肩腕に限定されない自覚症状が主で、顕著な他覚的所見が認められない。

Ⅱ度:筋硬結・筋圧痛などの所見が加わる。

Ⅲ度:Ⅱ度の症状に加え、左記の所見の幾つかが加わる。

イ 筋の腫脹、熱感

ロ 筋硬結・筋圧痛などの増強又は範囲の拡大

ハ 神経テストの陽性

ニ 知覚異常

ホ 筋力低下

ヘ 脊椎棘突起の叩打痛

ト 神経の圧痛

チ 末梢循環機能の低下

Ⅳ度:Ⅱ度の所見がほぼ揃い、手指の変色・腫脹・極度の筋力低下なども出現する。

Ⅴ度:頸腕などの高度の運動制限および強度の集中困難・情緒不安定・思考判断力低下・睡眠障害などが加わる。

2  保母の健康障害に関する調査、研究

(一)  保母の疲労調査の初期のものは「保育所の設備と運営」(厚生省児童局 昭和三〇年)のうちの高松誠外「保母の疲労調査成績」である。右の「保母の疲労調査成績」によると、

(1) 保母の疲労の自覚症状は、精神的症状と神経感覚的症状にきわめて高い頻度であらわれた。これは全産業の婦人労働の職場でもめずらしい事例である。

(2) 疲労部位では、頸頂部、眼部、肩甲部および下腿部の疲れ、凝り、痛みを訴えるものが多かった。

(3) 保母の勤務の中で、事務や雑用等の保育以外の負担を少なくすることが疲労度を軽減するのに必要である。

と調査結果が要約されている。

(二)  「保育所の設備と運営」(厚生省児童局 昭和三一年)のうち、斉藤一ら「年少児担当保母の疲労調査成績」において、一―三歳児担当保母に関する疲労調査によると、

(1) 保母の疲労の自覚症状頻度は、一般の産業労働者に比べて、身体的なものでも、精神的なものでも、更にまた神経感覚的なものでも、みな相当に高い。

(2) 疲労部位では、頸頂部、眼部、肩甲部および下腿部の疲れ、凝り、痛みを訴えるものが多かった。

(3) ちらつき値の日間低下率や血液ヘモクロビン値の日間低下率から考えて、客観的にみられた疲労度や負担度も相当大きいものとしなければならない。肉体的とみるよりも精神的負担がより大きいものである。その疲労度は保育一―三歳児数の増えるにしたがい概ね直線的に増大する傾向を示した。

と指摘された。

(三)  次に北海道立労働科学研究所の山本順子が昭和三三年九月に行った保母一九九名(回収数)を対象にした調査(「保育所保母の労働と疲労(1)」(昭和三四年))の結果によると次のとおりである。

(1) 全身がだるいが一一三名、肩が張る八〇名、声がかすれる七五名、足が腫れる七五名、頭が痛くなる五五名である。

(2) また、「いらいらする」、「いらだたしくなる」もそれぞれ五七名、二四名あり、手、足、肩がしびれるものが三六名あるなど、神経、感覚的、精神的疲労もかなり高い。

同調査において「全身がだるく非常につかれやすい」「足がだるい、関節リュウマチ、脚気、神経痛」などの訴えが報告されているが、これは今日的にみれば頸肩腕障害の症状に該当すると指摘されている。

(四)  北海道大学医学部衛生学教室が昭和三三年一〇月に市立一か所、公立二か所について環境条件、労働強度、疲労度を調査した結果によると(「保育所保母に関する労働医学的研究」(昭和三四年))、保母の労働はその消費熱量並びに主作業の平均エネルギー代謝率よりみて強労作に属し、しかも強労作に属する他の労働より実働率が高いので疲労度は高く、婦人労働としては限界位に位置していると指摘されている。

(五)  吉竹博らが昭和三七年から同三八年にかけて保育所の保母、養護学校の介助員、重症心身障害児(者)医療施設の看護婦および看護助手(いずれも女子)を対象として行った調査によると、全体的にみると、社会福祉労働者の疲労の訴えは、女子の事務作業者にくらべ相当高いと指摘されている(「社会福祉労働者の疲労自覚症状」(昭和三九年))。

(六)  細川汀は昭和四三年東大阪市の公立保育所保育者について行った調査から、疲労性の健康障害、とくに頸肩腕障害の発生を日本産業衛生学会(昭和四五年)、日本衛生学会(昭和四六年)で発表した。また、同氏は同四一年ないし四二年に京都・大阪の保育関係者の援助を得て七市(うち二市については二回の調査)の公立保育所の保育者(保母)二一八九名を対象とした健康診断の結果に基づき、「保育者の労働負担軽減に関する研究」(昭和五八年一一月刊行)を発表している。右の結果は後記のとおりである。

(七)  神奈川民医連汐田病院医師安達隆が昭和四六年一〇月横浜市内保育園保母一八二名に対し行った健康アンケート調査に基づく研究(同氏「保母の健康破壊」)によると、保母と銀行女子事務員と比較して保母の自覚症状の訴え率は高く、とくに疲労症状について多いこと、過密保育、労働姿勢、連続作業、休憩時間がないことなどが保母の筋肉疲労の原因であり、混合保育、合同保育が保母の神経疲労の原因となっていることが指摘されている。

3  保母の健康障害

細川汀「保育者の労働負担軽減に関する研究」によれば、保母の健康障害は以下のとおりである。

(一)  自覚症状

「頻時、時々の症状」の訴え率は、肩凝り、全身がだるい、頸凝り、腕がだるい、腰がだるい、下肢がだるい、肩が痛い等の順に多い。これら自覚症状と日常生活の不便・苦痛の訴えからは保育者の訴えは頸、肩、腕、腰の疲労症状がかなり多く、慢性疲労症状を伴いながら進行し、その中から痛みを強く訴える患者が現われている。

(二)  疲労部位

(1) 作業前後における疲労自覚部位

作業前および作業終了時のいずれの場合においてもだるさ、凝り、痛み、しびれなどの自覚部位は肩がもっとも多く、腰がそれに次ぎ、その他、頸、眼、腕、全身、背もかなり高い。作業前からの疲労自覚は肩、頸、背、腰が非常に高い。

(2) 時間別疲労自覚部位の変化

有意な変動の認められた部位は全て作業時間とともに訴えの増加が認められたが、とくに肩腕背腰部の増加が顕著であった。

(三)  疲労性疾病

保育所における実態は異常なし三一ないし六三パーセント、疲労症状二四ないし三七パーセント、慢性疲労(疲労蓄積)五ないし二六パーセント、要医療二・五ないし一〇パーセントで、保育者の疲労は顕著である。

(四)  保育者の過労性疾病の発生要因

保育者の保育作業の動作、種類、精神神経負担およびこれらの作業の量が主な因子として、また、休憩不足、環境不良、責任性および拘束性の加重、運動不足などが副次的な因子としてかかわり、他の作業条件上の問題、職場内の対人関係、睡眠、余暇などの問題も無視し得ない形で作用し、その時々の疲労を増強させる要因によって発症が促進され、障害が形成される。

4  保母と他の有職者との比較

(一)  年齢二〇ないし二九歳の女性について、保母、食料品販売業、事務職や組み立て作業員の罹病率を比較すると、保母は事務職と組み立て作業員より頸の硬結と疲労および痛み、腕の疲労と痛み、肩の硬直と疲労、腰背部の痛みに有意の差異があり、罹病率は保母の方が高い。

保母と食料品販売業を比較すると、頸と肩の硬結、頸の痛みに有意の差異があり、罹病率は保母が高い(小野ら「Occupational Nock-and Upporlimb Disodersin Nursery Teachers」(昭和五九年))。

(二)  レジ作業者と保育者を比較すると肩、頸、背、腰などの躯体症状では高度に有意に保育者に訴え率が高く、とくに「腰がだるい、いたい」とは明らかに保育者が高かった(細川汀「保育者の労働負担軽減に関する研究」)。

(三)  また、労働基準調査会「頸肩腕障害」(昭和五四年)においても、保母とレジ作業者の両者に共通した主たる症状は肩、腕の症状、筋圧痛、表在感覚麻痺、頸運動障害などであること、保母に顕著にみられた症状は「腰が痛い」であり、「肩がいつも凝る」や「腕がいつもだるい」も保母に有意の訴え率が高かったことが指摘されている。

以上によれば保母の保育労働は精神的緊張度が高く、かつ、幼児に合せた不自然な姿勢をとったり、十分な休憩もとらずに間断なく業務につかなければならないから、疲労度の高い労働であり、疲労の蓄積によって健康障害、特に頸肩腕障害、腰痛等が発症すること、他の職種と比較しても有意の差異があることが明らかで、保母の労働に起因してこれら保母の健康障害が発生する蓋然性が高いことを示しているものということができる。もちろん、〈証拠〉によれば頸肩腕障害の発生原因としては三大要因が考えられること、その一は労働条件、労働環境などの労働因子、その二は基礎体力の不足などを基とする身体自身に欠陥がある身体的因子、その三は精神的、心理的諸問題に由来すると考えられる精神的因子であるとされていることが認められる。第二、第三の因子の存否についても検討しなければ当該疾病と労働との因果関係を明らかにすることはできないが、反面、これらの因子がない場合は、労働因子、すなわち保母労働に起因して頸肩腕障害が発症したと認められる蓋然性が高いといわなければならない。

五原告の発症と治療経過

1  原告の発症の経緯

〈証拠〉と当事者間に争いのない事実によれば以下の事実が認められる。

(一)  原告は長津田保育園に勤務していた頃の昭和四五年九月頃から、肩、背中の痛みを時々感じるようになった。

(二)  原告は昭和四七年四月、一、二歳児を担当することになったが、その頃から、慢性的肩凝りに加え、右腕、肘の痛みが激しくなってきた。そのため、接骨院で電気マッサージを受けるようになった。治療は同年六月原告が山手保育園に転勤するまで毎日続いた。その頃、原告は電車、バスのつり皮につかまっているのも苦痛であった。

(三)  原告は昭和四七年六月二日山手保育園に転勤したが、その頃から肩凝り、腕のだるさ、立っているのがつらい、精神的疲れを感じるなどの自覚症状があった。同年七、八月家で家事をするのもつらく、保育園の調理作業中、右背中に作業を中断しなければならないほどの激痛を感じたこともある。

(四)  原告は同年九月四日汐田病院で診断を受け、医師に対し、次のように訴えている。半年くらい前から非常に肩が凝る。特に右肩が凝る。右側の腕にだるさと痛みがある。肩凝りと腕のだるさは慢性的である。時々、強い肩の痛み、首の痛み、腰のだるさと痛みがある。全身的症状として体がだるい。

他覚的には、触診により肩甲筋の緊張・亢進と圧痛があり、右頸部に伸展痛があった。右の頸部を圧迫すると上肢の痛み、右腕の圧痛があり、右肩甲骨の内側に圧痛があった。

医師安達隆は原告を頸肩腕症候群(後に「頸肩腕障害」と改める。)と診断した。原告の症状は、前記四1(二)において認定の日本産業衛生学会頸肩腕症候群委員会の頸肩腕障害の病像進展度経過によるとⅡ度、時々Ⅲ度に当たる。

同月原告は四回マッサージを受け、治療を始めてしばらくは自覚症状も軽くなり、右腕の痛みもやわらいだ。

(五)  原告は、昭和四七年一〇月頃園児に対する着脱指導の際、座っていても背中が痛み、蒲団の上げ下ろしが非常につらく、ストッキングを履く際に腰が痛かった。同年一二月頃買物の荷物を持っているのがつらく、家で口をきくのもいやになることがあった。

(六)  原告の通院の状況は以下のとおりである(日の前の・印は通院職免を意味する。なお、前顕乙第三三号証によれば左記認定以外にも原告は昭和四七年六月二三日、同四八年一月一三日、同年二月二七日に通院職免を得ている。)。

四七年 九月 四日、・一一日、・一八日、・二二日、・二九日

一〇月 五日、・一二日

一一月 七日、二二日、・二八日、三〇日

一二月 五日、七日、一四日、一八日、・二五日

四八年 二月 一日、・五日、九日、一五日

三月 ・一日

五月 二日、九日、一五日、二二日、二九日

六月 五日、一一日、二一日、二六日

七月 三日、九日、一二日、一六日、二三日、三〇日

八月 九日、一三日、二九日、三一日

九月 七日、一四日

一〇月 一五日、二二日、二九日

一一月 一四日

一二月 二一日

四九年一月 一一日、一八日、二五日

二月 五日、一二日、一八日

四月 三日、八日、一五日、二二日

五月 一三日、二〇日、二七日

六月 二日、二六日

七月 二日、六日、九日、一三日、一六日

八月 九日、一六日、二三日

一〇月 一日、七日、一四日、二一日

一一月 八日

五〇年 二月 三日、七日、一四日、二一日、二八日

四月 二五日

五月 二日

七月 二八日

五一年 二月 六日

八月 一三日

(七)  昭和五一年八月一三日の原告の症状は右肩がいつもだるく、時々痛む。頸、背、腕がいつもだるく、痛む。同日の原告の症状は、前記日本産業衛生学会頸肩腕症候群委員会の頸肩腕障害の病像進展度経過によるとⅢ度である。

その後、原告の症状は同五二年から同五五年頃までの間小康を得ていたが、同五九年一月四日頸、背、肩に激しい痛みを感じ、同月六日今井整形外科で診断を受けたところ、頸・背部の緊張感、疼痛が強いため三週間安静加療を要するとの診断を受け、その後も、肩、腕の痛み、だるさ、背中の痛みなどの症状が続いた。

(八)  その間原告は昭和四七年一〇月、一一月に各一回、同年一二月二回、同四八年一月から二月までの間に三回、同年三月一回マッサージ治療を受けている。

さらに、原告は同四九年七月二二日から同五八年六月まで自宅で月二ないし五回指圧治療を受け、同五九年四月一六日から骨格調整治療を受け、最近(同六二年一一月一〇日の原告本人尋問の日現存)原告は治癒の見通しがついたと考えている。

右認定に反する趣旨の〈証拠〉は前顕各証拠と対比すると措信できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

2  右によれば原告は遅くとも昭和四七年九月四日までには頸肩腕障害に罹患したこと、その後症状には起伏はあるが頸肩腕障害の症状が続いていることは認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

六因果関係

1  相当因果関係と認定基準

〈証拠〉によれば「キーパンチャー等上肢作業にもとづく疾病の業務上外の認定基準について」(基発第五九号昭和五〇年二月五日)においては、業務に起因するいわゆる「頸肩腕症候群」が上肢作業以外の作業から発症することは一般に乏しいと考えられたので、上肢作業を中心として認定基準が設定されたこと、しかし、認定基準に合致しない作業態様からの頸肩腕症候群の発症を全く否定しているのではなく、もし、このような事例が発生した場合には、ケース・バイ・ケースで業務起因性の有無を判断していくこととなること、特に、重症心身障害児施設や保育所の保母等の頸肩腕症候群については医学的にその発症の機序、病態等がなお未解明であるところから、新認定基準のなかに含めることは困難であったので、当面、各々の保母の業務の特異性、労働負荷の実態に応じて個別に業務上外を判断していくこととされたこと(労働省労働基準補償課編著「詳解職業性疾病の認定基準」)が認められる。

したがって、右の認定基準においては保母の頸肩腕障害に関し定型的な判断基準はなんら示されていない。

次に、〈証拠〉によれば原処分庁である地方公務員災害保償基金横浜市支部長は、公務上外の認定にあたっては被災職員の職歴、職務内容、業務量、作業の態様、施設環境、生活の状況、身体の状況及び当該疾病の状況等を調査すべしとし、「業務過重性」の判断基準として

(一)  施設面積および職員の配置が厚生省基準を満たしていなかった場合

(二)  労働基準法に違反して勤務した場合

(三)  (一)、(二)の期間が相当長期間であった場合

(四)  超過勤務が相当あった場合

(五)  保母二名で、一クラスを担当していた時、一方の保母が欠席しがちであった場合

(六)  その他特に著しい業務過重性があった場合

との基準を示していることが認められる。

児童福祉施設最低基準(昭和二三年厚生省令第六三号)によれば、最低基準は、児童福祉施設に入所している者が、明るくて、衛生的な環境において、素養があり、かつ、適切な訓練を受けた職員(児童福祉施設の長を含む。以下同じ。)の指導により、心身ともに健やかにして、社会的に適応するように育成されることを保障するものとする(二条)こと、児童福祉施設は、最低基準をこえて、常に向上させるように努めるものとする(四条一項)と規定されている。すなわち、最低基準は児童施設に入所している者、すなわち児童が施設において保母の指導や教育の許で生活するための最低必要な基準であって、保育労働者の健康を保持するために定められた労働条件、労働環境に関する基準ではない。したがって、最低基準を遵守していれば保母に健康障害が発生しないとの保障はないものというべきである。

以上のことは右(二)以下の基準に関しても同様にいうことができ、定型的な基準は相当の合理性があるにしても、右の基準に当てはまらないことをもって直ちに因果関係なしと判断することはできない。

2  原告の疾病と公務との因果関係

(一) 前記四4において認定のとおり頸肩腕障害の発生原因として労働因子、身体的因子、精神的因子の三つがあるとされる。

まず、原告には本件障害発症に至るまでの間に昭和四三年六月頃に膀胱炎に、同四五年一〇月に副鼻腔炎に罹患したことがある以外に取り立てて大きな病気をしたことがなく、概して、健康であること、同四七年当時の原告の家族構成は夫清と長男高志(同三八年八月一四日生)、二男健二(同四一年一月一四日生)、長女ゆかり(同四六年六月一四日生)であることは前記のとおりであり、さらに、原告本人尋問の結果によれば、

(1) 原告はゆかり出産後は姉の松村悦子にゆかりの世話をしてもらい保育園勤務を続けたこと、松村の援助はゆかりの三歳半まで続いたこと、体の不調を感じたのはゆかりを出産した約一〇か月後であること、

(2) 原告は同五〇年七月から同五四年一〇月まで労働組合の執行委員を努め、組合関係の文書の筆耕をしたこともあるが、その間の症状は一進一退の状況であったこと

が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

右によれば、ゆかりの出産、育児が本件障害の原因となったとは認め難いし、時期的にみて、原告の右組合活動が本件障害の原因ともいえず、その他原告に保母労働と関連性のない精神的因子があったと認めるに足りる証拠はない。

(二)  また、前記のとおり保母の労働はたえず乳幼児全体の行動を常時観察、把握し、その行動に対処しなければならず、しかも他の乳幼児に対する介助等と同時的、並行的に行わなければならないことから、たえず精神的緊張を要求される労働であること、乳幼児の身体的条件、行動に合せた労働であるため、無理な作業姿勢をとり、上・下肢、腰部等へ負担となることの多い労働であり、また、十分な休憩もとらずに間断なく職務につかなければならないから、疲労度の高い労働であり、疲労の蓄積によって健康障害、特に頸肩腕障害、腰痛等が発症する蓋然性が高いなど、保母労働の一般的特性に加え、新設の保育園は開園準備それ自体で、多忙をきわめるのに、同僚保母職員は経験不十分であったことから、原告は保母職員の中で指導的役割を果さざるを得ず、しかも、原告自身新任の主任保母として未経験の重要な任務を担当することにより肉体的、精神的負担が大きく、かつ、休暇も十分に取得できなかったなどを総合すると、本件障害は原告の保母労働に起因して発生したものと認めるのが相当である。さらに、保母の休暇取得その他によって変則的な保育を余儀なくさせられたことも本件障害を増悪する原因となったものと認めるを相当とし、これらを覆すに足りる証拠はない。

七被告の債務不履行責任

1  地方公共団体は当該地方公共団体の職員に対し、その公務遂行のための、場所、施設若しくは器具等の設置管理又はその遂行する公務の管理にあたって、公務員の生命および健康を危険から保護するよう配慮すべき義務を負っている。

原告は被告の設置した市立保育園の保母であるところ、原告が従事する保育労働は肉体的・精神的疲労を伴う労働であり、疲労蓄積の結果、頸肩腕障害、腰痛等の健康障害の発生することがあるので、被告は原告に対し以下のような安全配慮義務を負っているものというべきである。すなわち、

(一)  被告は市立の保育園に保母、作業員等適宜な人員を配置して業務数の適正化ないし軽減化を図るとともに、保母らのために十分な休憩時間を設定・確保し、休暇を保障し、かつ、施設を整備して肉体的・精神的疲労を防止し、保母の健康障害の発生を防止すべき義務がある。

(二)  また、被告は、健康障害の症状を呈する労働者を発見した場合には、早期に適切な治療を受ける機会を設ける措置を講じ、そして、病状の増悪を防止し健康の回復を図るため、病状の悪化につながる業務の量的、質的な規制措置を講ずべき義務を負っている。

ところで、〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

(一)  昭和四二年東大阪市で保母三名が頸肩腕症候群に罹患した。

(二)  名古屋市の保育園における頸肩腕障害、腰痛症患者発生状況は次のとおりである。

昭和四五年度  二名

四六年度  二名

四七年度  一六名 (上期一四名、下期一二名、合計一六名と記載)

四八年度 三六名

四九年度  七名

五〇年度  四名

五一年度  五名

五二年度  五名

五三年度  〇名

(三)  全国の保育園保母の頸肩腕症候群・腰痛の公務上外認定の結果は次のとおりである。

公務上 公務外

昭和四六年  〇名  五名

四七年  〇名  二名

四八年  一名  〇名

四九年 四六名  九名

五〇年  八名 一二名

以上によれば昭和四五、四六年当時には、既に保育労働に従事する保母に頸肩腕障害、腰痛症患者が発生し、業務上、公務上の災害(疾病)の認定を求めるケースが全国的に出始め、その結果、保母について同四八年頸肩腕症候群・腰痛が公務上と認定されるケースも出たことが認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

したがって、同四六、四七年当時、すでに保母をめぐる健康障害として右のような状況にあったのであるから、被告は自己の職員である保母について頸肩腕障害の発病のおそれがあることを予見し、あるいは予見することが可能であったといわなければならない。

2  以下、被告の前記注意義務違反の有無を検討する。

前認定のとおり、原告は昭和四六年四月から同四七年六月山手保育園に転勤までの間、長津田保育園において一、二歳児を担当したが、同保育園の乳児室が二つに仕切られて狭く、便所が離れたところにあり、かつ、汲取式であるなど施設の不備があったこと、同四七年六月、原告が新設の山手保育園に主任保母として転勤し、新設保育園の開園準備、同僚保母職員の経験不足のために主任保母である原告の業務量、責任が増大し、疲労の蓄積等から本件障害の前駆症状を経て、本件障害を発症させるに至ったものである。

その間被告は原告に対し業務軽減措置を講じたと認めるに足りる証拠はない。また、原告が同四七年九月四日汐田病院で診察を受け、「頸肩腕症候群(後に頸肩腕障害)」と診断され、治療のため、通院する事態になっても、被告は原告に対し業務軽減ないし休憩を確保する措置を講じたと認めるに足りる証拠はない。かえって、同四七年一〇月から同四八年三月までの間(延べ六か月間)原告の同僚保母の長期休暇により、一、二歳児一一名ないし一五名を原告一人で担当させ、業務の負担が増大したことは前認定のとおりである。

右によれば被告は市立の保育園に保母、作業員等適宜な人員を配置して業務量の適正化ないし軽減化を図るとともに、保母らのために十分な休憩時間を設定・確保し、休暇を保障し、かつ、施設を整備し肉体的・精神的疲労を防止し、保母の健康障害の発生を防止すべき義務を怠ったと認めるを相当とする。

次に、被告は原告に対し昭和四七年から同四八年にかけて通院職免を与えたことは前認定のとおりであり、また、〈証拠〉によれば昭和五二年に実施された特別健康診断の結果、原告は腰部、肩腕、上肢の柔軟体操の励行、一時的作業量の軽減の指示を受けたこと、また、口頭で一時間仕事をしたら一〇分休むように指示されたこと、しかし、右の指示は原告が実際に休憩を取ることが可能であるような具体的なものではなかったことが認められ、右の通勤職免、指示以外に、被告は、原告の病状の増悪を防止し健康の回復を図るため、業務の量的、質的な規制措置を講じたと認めるに足りる証拠はない。右の通勤職免、指示は原告に対する業務の量的、質的な規制措置として十分なものとは認めることはできない。

したがって、被告は原告の病状の増悪を防止し健康の回復を図るための、業務の量的、質的な規制措置を講ずべき義務を怠ったと認めざるを得ない。

なお、原告は右に述べた被告の義務違反以外にも種々被告の義務違反を主張するが、これらを認めるに足りる証拠はない。

八損害

原告の疾病の態様、経過によれば、原告は長期にわたり、肉体的、精神的苦痛を受けてきたことが認められ、さらに、〈証拠〉によれば、原告は現在まで指圧療法費として金一〇二万九〇〇〇円、骨格調整費として金七五万六〇〇〇円、合計一七八万五〇〇〇円の治療費を支払っていることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

かかる原告の肉体的、精神的苦痛、治療期間その他諸般の事情を考慮すると、原告の本件障害に対する慰謝料は金二〇〇万円をもって相当とする。

九よって、原告の請求は主文第一項掲記の範囲内で理由があるので認容し、その余は理由がないので棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文、仮執行の宣言につき同法一九六条を各適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官渡邊 昭 裁判官青山邦夫、同青木晋はいずれも転補のため署名捺印することができない。裁判長裁判官渡邊 昭)

別紙〈省略〉

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